そこに懸けた想いの深さも尊さも。
本来、自国の憲法には、こうした先人たちの精神や想い、そして国柄や歴史を確りと反映させ、受け継ぎ繋いでゆかねばなりません。果たして、「現行憲法」の成り立ち、そして、中身はどうか?
断絶され奪われたものは必ず取り返す。
子孫に繋がなければならないことは必ず繋げる。
当たり前のことを当たり前に明記し実現する。
このことに気付いてから、私にとって今日はそのことを誓う祈念日です。
その意味で国旗を掲揚します。
致知出版社
★『致知』が贈る「憲法記念日」特別配信★
「明治憲法制定に命を懸けた男」
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本日は憲法記念日です。
日本国憲法を語る時、その比較
対象としてよく挙げられるのが
明治憲法です。
そこで本日は明治憲法制定に
命を懸けた男、井上毅の感動物語を
特別配信させていただきます。
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幕末に熊本藩に生まれた井上毅は
藩校で儒教を学び、維新後は
フランス語を学び、
明治5年にはフランスへ渡り、
西洋の法制度を学ぶという経歴を経、
法制官僚としての階段を上り詰めて
おりました。
しかし、井上には専門的に国史国典を
学んだという経歴がありませんでした。
その井上が、この『大政起要』の編纂に
関わることになったのを機に、
国史国典の勉強をやり始めたのです。
直接的な当時の資料はあまり残されて
おりませんが、井上がこの国史国典を
どのように考えていたかを推測させて
くれる記録が残されています。
明治16年か17年の頃、
皇典研究所という所で
井上が講演をした時の記録です。
ちなみにここで皇典とか国典とか
いうのは『古事記』『日本書紀』の
ことです。
ここで井上はまず次のように
述べています。
「政事の為めに国典を講究することは、
政治上隨一の必要である。
何んとなれば、海の東西を問はず、
総ての国が其の憲法及び百般の政治に
就いては、其の淵源基礎を己れの本国の
歴史典籍に取らぬ国は無い。
国の歴史上の沿革及故典慣例は、
其の憲法并に政治の源である」
『古事記』『日本書紀』を研究することは
非常に大切なことである。
この国に生まれたあらゆる人間が
学ぶべきことであるといっても
いいだろう。
洋の東西を問わず、
憲法や政治百般について、
その基礎を自らの国の歴史の典籍に
とらない国はない。
その国の歴史、それを記した古典、
慣例こそ、その国の憲法並びに
政治の源である。
そこを押さえねば憲法は考えることが
できないし、政治もできはしない、と。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
ドイツから帰国した翌年、伊藤博文は
憲法準備のために制度取調局を設置し、
井上毅を含む15名が同局兼任
となりました。
井上はさらに憲法草案に向けての研究を
進めます。
相変わらず直接的な資料があるわけでは
ありませんが、同時に井上は日本の歴史、
とりわけ皇室の歴史を徹底的に
学び始めたと思われます。
井上は当時、東京帝国大学で国史を
教えていた小中村清矩の教えを
受けるとともに、小中村の婿養子である
池辺義象を助手にして
『古事記』『日本書紀』や『大日本史』などの
日本の歴史書を徹底的に勉強して
いきました。
明治19年に池辺が
東京大学古典講習科を卒業すると、
池辺は宮内省図書寮に
採用されます。
当時、井上は同省図書頭も兼務して
おりました。
池辺がその当時のことを
次のように記しています。
「19年の夏、この学科を卒業して
大学をいで、やがて宮内省図書寮の
属官を拝命しぬ。
この時、先生はこの寮の頭にて
おはしながら、かの帝国憲法、
皇室典範の制定に従事したまひしかば、
寸時も暇あらせたまはず、
朝はまだほのくらきより起きいでて、
夜は更るまでこの事にのみ
かがづらひたまひき。
その任用したまふ人おほき中にも、
おのれには我国の典故を悉取調べさせ
たまへり。
さればおのれは、官省時間の外は
先生の家にのみ籠り居、
常にその監督の下にありて、
その料をかきつづりしこと
いくばくなりしぞ」
この頃からそんな無理がたたってか、
井上は病気がちでした。
池辺はそんな井上の健康を心配し、
気分転換をかね、明治19年の暮れから
翌年にかけ、井上を安房、房総、相模を
巡る旅に連れ出します。
ところが、井上はどこへ行こうと、
昼食の席でさえ書類を手から離そう
とはしません。
そして思いついたことをすぐに筆で
書き留めようとするのでした。
その凄まじさには拙著
『教育勅語の真実』でも触れていますが、
ここでも重複をいとわず紹介して
おきましょう。
あるとき千葉の鹿野山に登ることに
なりました。
井上は片手に杖を持ち、
もう一方の手にはいつものように
書類を握りしめて歩いていました。
山は12月の冷たい風が吹き、
手が凍るように冷たくなります。
ようやく井上は書類を鞄にしまいました。
横を歩いていた池辺は、
「ようやく歩くことに専念していただける」
とほっとするのですが、
それもつかの間、井上はこういいました。
「ところで、大国主神の国譲り≠フ
故事はどういうことだったろうか」と。
あるいは鎌倉に行ったときのことです。
その日は雪が降り、
風も強くなっていました。
井上は歩きながらいつものように、
「大宝律令にはどんな話が書いてあった
だろうか」
と質問します。
池辺が
「あいにくここには原文がありません。
私の記憶だけでは正確に答えられません」
というと、
「いますぐに確かめたい。
帰京予定は明日になっているが、
それを一日早め、これから出発すれば、
今日中には東京に帰ることができる」
と、突然雪が降りしきるあぜ道を
駆け出したというのです。
そのようにして藤沢まで行き、
そこで人力車を雇って横浜へ。
さらに汽車に乗り継いで、
その日のうちに東京に戻ったといいます。
私はこの池辺の文を読んだとき、
ここまでして井上は日本の歴史の
核となるものをつかもうとしたのかと、
思わず涙がこみ上げてくる思いでした…
………………………………………………
伊藤哲夫
(日本政策研究センター代表)
「明治憲法の真実」 (小社刊)より
<目次>
序章 明治憲法最後の日
第一章 五箇条の御誓文から始まった明治憲法
第二章 いかなる憲法をつくるか
第三章 明治憲法成立
最終章 日本国憲法を考える
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