現在、様々な社会問題が子どもに集中して起こっています。
いじめ、虐待、ネグレクト、給食費の滞納、学級崩壊
学力低下(?)、体力低下、難病…etc
「子は社会の鏡である」と言われますが、まさにその言葉そのものと言えるかもしれません。誰一人として、このままで良いと考えている人は居ないと思います。
cf;ドロシー・ロー・ノルト「子は親の鏡」
私は、駅や電車や交通マナーや挨拶など、大人のマナーの悪さを折に付けこのブログでコメントしてきましたが、今、一番問題なのは、私たち大人であって子どもではないと考えています。
■「子どもの権利」と「大人の対応」
そこで、今、注目されているのが「子どもの権利」です。
権利と言えば、法律の世界では「権利の対偶には責務がある」と教えられ、私も額面どおり、そのように認識してきましたが、今日講演をお聞きして、今まで当たり前に感じてきたことが、実は(自分がたどってきた道も含めて)実現されていなかったことに気付きました。
子どもは誰のために居るのか?
子どもは一体誰のものなのか?
この問いに対して、
皆さんはどのようにお答えになられますか?
そもそも、「もの」という認識自体が大間違いであり、「誰のために生きているのか?」と考えると、本質的な理解に繋がると思われます。
今回の学習を良い機会として、
この問題について勉強をして行きたいと思います。
親になって思うことは、今の親は子供を
自分のおもちゃかブランド品か間違えている
方が中にはいらっしゃいます。
なぜ自分の子供の面倒をみないのか?
それは自分がまだ子供だから、自分の欲求を
満たすほうが先なんです。我慢を知らない大人が
親になってしまっているのではないでしょうか?
偉そうな事を書きましたが、自分の子供も周りの
子供も同じと平等に接するようにしています。
果たして、それがいいのかどうかはわかりません。
子供たちが安心して暮らせる、親が安心して子育てできる社会になって欲しい、そのために
一国民である私もがんばりたいと思います。
どうか、がんばっている親のために少しでも
住みやすい地域づくりを目指してね
(私に言われなくてもがんばっているでしょう^^;)
犯罪にしろ虐待にしろ個人の問題ではなく社会の問題と考えています。
近年の考え方として法定刑の引き上げ(=厳罰化)をすれば犯罪は減る虐待減るというのが一般的ですが罰を与える事よりも原因を追究するシステムを整備するのが先決だと考えています。
少年に関しては家裁調査で資質調査などが行われてそのに基づいた決定が行われますが虐待に関しては、まだまだシステムが何もないと思います。
我孫子市でも2003年でしたが母親と祖母が娘に暴力を振るい死亡に至った結果、慈恵医大から柏児相に連絡がいき虐待の事実が確認された事件がありました。その影響で役所でも子ども課が設置されたと聞いています。しかし、これが一般に知られていなかったりすることで相談の門戸が狭まり、相談したいけれども出来ない人もいますし、児童虐待防止法に定められている通告義務を果たしたくても児童相談所が市内になく、どこに通告すべきなのか分からない者への配慮なども必要です。
私の周りでも虐待事実を通告したいんだけれども相談体制が整っていない電話が通じないという話を何度も聞き相談を受けました。
話が大分ずれましたがこれらの問題を社会の問題として捉えなくてはなりません。
法定刑の引き上げなどは、「大人や社会の責任逃れ」と私は考えています。
あとこのようなイベント・勉強会は、もっともっと宣伝をしてみて欲しいです。考える機会を与える事って非常に大切な事だと思います。
コメントありがとうございます。
「子は社会(親)の鏡であり、かつ、社会の宝である」
でも、子どもは親の所有物ではない。
しかし。全てのツケが、今、子どもに向かっています。
大人の責任は何か?
それは言わずもがなのことだと思います。
・率先垂範;手本になるような行動をしめすこと。
・ツケ(借金・社会不安)を回さないように、自分で自分のケジメを付けること。
だから、キャッチフレーズを表題のように変えました。
共に変えよう! 市、県、国、そして、自分自身のこと。
<余談>
・ネット上(掲示板)に性懲りもなく、何等根拠のない誹謗中傷を書く。
・匿名の投書や電話で、一方的な批判や非難をぶつける。
しかし、この人たちは自分の発言に責任は取りませんし、責任意識の欠片もありません。
・公共の場にゴミ・タバコを、良心の呵責もなく捨てる。
・同じ地域の住人でありながら、犬の糞すら処理しない。
こうした所には、現代社会の病理の一端が見事に現れていると思います。
私はこの社会病理を一つずつ是正(根絶)して行きたいと強く願っています。
そして、誤解や批判を恐れずに言えば、そうした方々を「絶対に逃がさない」ツモリです。