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参加者が、す、少ない…
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本日のTMの(一般の)参加者は非常に少なかったです。
ある意味、想定内。ある意味、残念という所です。
参加者の多寡で判断するツモリはありませんが、
絶対的な関心の低さを感じます。
我孫子市の自治のルール(≒(仮称)我孫子市自治基本条例策定委員会では「まちの憲法」と位置づけています。)を策定するに際して、その主人公である市民の関心が低い事は、やはり大きな問題と言えるでしょう。
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ちなみに両会場とも、参加者は35名前後。
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内訳として;議員7,8名、職員10名前後(事務局含む)、懇談会メンバー5名前後。以上を除く、いわゆる「一般の方」は10名いるのか居ないのか?という感じだったと思います。
直近の広報の見開き2ページを使い、自治基本条例の策定を大々的にPRをしているにも関わらず、今回の結果は何を示しているのか?
このことを真剣に考えなければなりません。
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呼ぶ側の姿勢に問題はないか?
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市民の関心を呼び起こそう、一人でも多くの市民を巻き込んでいこう。
そういう視点や姿勢が欠けている如実な表れ(顕れ)であると思います。
元来、「政治に関心のある方」を除いて、一般的には自分に関係する事柄が身近に起きない限り、市民は地方政治(市政)に関心を持ちません。
しかしながら、市民に一番身近な政治を行っているのが、基礎自治体である「市」です。しかも、今回のテーマは、今後の市政に大きな影響を与えるものです。
その意味において、今回の参加状況は大きな問題と言えます。
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せっかく「ホトケ」を作るなら、「魂」を入れたい。
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仏造って魂入れず。という言葉がありますが、昨今の、慌しい条例制定の流れを端的に表す言葉だと思います。
会の後半で行われた「意見交換」の中で、本質的な部分にふれるモノが多々あったような気がします。
急がず、慌てず、怠らず。こうしたやり取りを、各地でジックリとやるかやらないかは仏に魂を入れる為に非常に重要であり、むしろ不可欠であると感じています。
流山ではPI方式を採用し、流山自治基本条例市民協議会が主体的に各地に出向いて、これを実践しています。
もし、その心意気が市(≒市長)にないのであれば、市(市長)が自らの責任において、当条例案を【議会】に直接上程し、審議を求め、市民の代表者である議員が責任を持って条例を審議し、可否を決めれば良いことです。
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その時主役は?
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参加する側、主役である市民の意識に問題はないか?
このことを問うのは、ある意味「酷な事」です。
しかしながら、地方分権が進む中、お上と崇め奉っている?国(中央政府)が何もしてくれなくなるまで、あと僅かとなりました。
私たちの地方自治(言うならば「政治一般」)に対する認識を変える、高める。
そのキッカケが、自治基本条例のもつ重要な側面だと思っています。
条例の中身はもちろん大切です。
その箱に何を入れるのか?
皆で考えなくてどうするのか?
私はそう感じています。
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我孫子市のルールを作る条例です。
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湖北台の会場では、市外の参加者の方の発言が発端となり一時紛糾してしまいました。本当に残念なことでした。
自分たちが住み暮らしている「まちのルールを決める条例」を考えようという主旨の集会において、市外の方が発言をすることは「常識外」のことです。
表現の自由は許されているとしても。たとえ、正しい指摘であったとしても…。
会場の大多数の市民から見ても、私個人の感情からしても。
非常に受け入れがたく納得できない展開でした。
我孫子には我孫子の自治があります。
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少し、いや、かなり視点を変えて。
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以下は、自治基本条例とは関係の無いことですが、色々なご意見をお聞きしていて、また、ここ最近、ふと思いつくこと、感じることです。
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下記の文章は、どちらが正しい考え方なのでしょう?
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@市があり、県があり、国がある。そして、世界がある。
A世界があり、国があり、県がある。そして、市がある。
どちらも正しい考え方だと思います。
であるからこそ、どちらの視点も欠けてはイケナイと思います。
どちら(のベクトル)から考えようと、
「その【考え方】は間違っている」とは断言出来ません。
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木を見て森も見る。
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私たちは、
市民であり、県民であり、国民である。そして、地球人(市民)である。
私たちは、
地球人(市民)であり、国民であり、県民である。そして、市民である。
冷静に、かつ、全体をシッカリ見て議論を進めて行きたいと考えています。
これからの地方分権で変わる地方自治に必要な条例は個別条例で十分です。
「まちの憲法」という位置付けは大きな論点の一つだと考えています。私自身は、「憲法」として大上段から振りかざす印象を持たせる必要は無いと考えています。
市民にとって聞きなれない「自治基本条例」を、分かりやすくするという意味で(も)「まちの憲法」という位置付けをしたわけですが、このことによって誤解や認識の差異(大きな溝)が生じていることは確かだと思います。これは議会における「空気」にも出ています。
地方分権が進む中で、国におんぶに抱っこしてもらうという認識ではイケナイ。という認識は、大多数の市民認識だと思います。その意味においては、今後の「自治体経営」という観点から、統一のルール(姿勢)や認識(覚悟)を持つ事は必要であると考えています。
ただ、そのルールを決めるに際しては、丁寧な議論を行わなければならないと再三訴えてきましたし、今でもそのように考えています。
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最近、富に市外の方からのご意見をいただくことが多くなってきていると感じています。正直なところ、そのことに対しては【2006年07月09日二つのTMに参加して。】に記載のとおり、「違和感」を覚えています。しかしながら、中には貴重なご意見もあることは確かでもあります。
サスケさんご指摘のように、個別条例で対応すべきものもあれば、自己決定・自己責任が不可避な中における、一つの基礎自治体としての統一的なまちづくりの見解を定める条例も検討が必要な時期ではあると認識しています。
だからといって、現下に進んでいる「条例案(9月には議案と成る予定)」を無批判に認めるということでは有りません。
直すべきところは直す必要があると考えていますし、または、制定すべきではないと判断する事もあります。
我孫子の市民とって何がベストの選択なのか?
を基本に据えて考えて行きたいと思っています。