昨日、同僚議員である管剛文(たけふみ)さんと、「訳有って」自治基本条例の策定に関して市長との面談の場を持った後、話し合いました。(管さんのブログはこちら)
管さんは同期の議員の中でも取り分け色々な事を議論できる方で、意見の相違はあっても、そうした関係を持てることは、とても有益でありがたいことです。
ここ最近は、専ら二人でせっせと、毎週行われている自治基本条例策定委員会を傍聴しており、その後に議論をする。そんなことを繰り返しており、策定委員会の議論をみるにつけ、当該委員長になってしまった市長に「どうしても、これだけは言っておかねばならない」との想いが重なり、今回の会談の場をセッティングしていただきました。
なぜ「新しい公共」なのか?
何度もこの場でお話していますが、今回の目玉となっているのも、議論の火種(論点)になっているのも「新しい公共」です。
策定委員会(部会・起草会議含む)では、「(今の時代に必要とされる)公共についての新しい認識(≒新しい公共)」を考えるという、とても重く、かつ正解のない(結論の出しにくい)命題を背負っている形となっているため、当然ながら議論はまとまりのつかないものになります。
これは、策定委員会だからということでは勿論無く、議会で議論をすることになれば、それこそ「より複雑な要素」も絡まって、到底まとまりのつかない話になるやも知れません。
そもそも、なぜこのような概念が必要となったのか?
公の対偶にあるのは「私」です。
そこから見えてくるものがありそうです。