2018年04月14日

『葉隠』の世界観

媚び、おもね、へつらう。

やってもいない事を自分の手柄だと嘘を言い募り、人の足を引っ張ることで、のし上がろうとする愚か者がなんと多い事か…

これらの畜生道が横行する現代社会においては、およそ想像だに出来ぬ世界観。

山本常朝も武士道精神が廃れて行くことへの憂いを抱きながら、田代陣基に伝えたのかも知れない。

けれど、この世界観は今でも脈々と生き続けている。

我々が日本人であり、この道を忘れない限り。

鮮血の迸るような切れ味鋭い指南書『葉隠』

【綜學】現代文明の行き詰まりを救う全体学〜連載その71

◇たとえ浪人切腹となろうが、決して変えてはならない精神◇

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鮮血がほとばしるかのような“切れ味の良い”武士道書。

そのように称される『葉隠』の冒頭の文を見てみましょう(意訳:林)。

「お役御免となって浪人になることも、命ぜられて腹を切ることも、それぞれ一つのご奉公である。浪人となれば山の奥に身を潜め、切腹すれば土の下に眠ることにもなるが、我が身がどうなろうとも、永遠に我が鍋島藩を心配する心入れが大事だ。そこに鍋島侍の覚悟の初門(入り口)があり、同時に我らの骨髄があるのである。

出家している僧形の私には似合わないことだろうが、僧侶が目指す成仏などは、いまだかって一度も願ったことがない。七回生まれ変わる度に必ず鍋島侍に生まれて来て、我が藩を治めていく覚悟が胆(きも)染み通っているまでだ。

そこには、見せかけの気力も、格好を付けるための才能も要らない。一口に言えば、必要なことは、我が藩を一人で担う志が立っているという唯一点にある。

同じ人間なのに、一体どこの誰に劣っているというのか。全体に修行というものは、大高慢とならなければ役には立たない。自分一人で我が藩を動かそうという気概で取り掛からないでいて、どうして修行が物になるだろうか。」

お役御免は無念なことですし、切腹が武士にとって名誉ある死だとしても、やはりただ事ではありません。現代人が似たような事態に遭遇したら、泣き言や恨み言を口にしたり、慌てて逃げ出したりすることでしょう。でも、主君の命とあらば仕方ありません。それらを粛々と受け止め、取り乱すこと無く与えられた運命に従えと。

この「浪人切腹」のところを読んで、素直に頷ける人は殆どいないでしょう。上からの指示に盲目的に服従し、一切逆らうことなく命を差し出せというのですから、拒否したくなるのは当たり前です。

しかし、戦国の時代であれば、敗れて牢人者となるのは普通のことでしたし、切腹や介錯(かいしゃく、切腹する者の首を斬る行為)は、武士が必ず身に付けていた作法です。文のこの部分の是非を論じても詮方(せんかた)ないことです。

語り部の山本常朝が言いたいことは、その先にありました。浪人切腹という厳しい境遇や事態に陥っても、変えてはならないものがあると。それは、どこまでも鍋島藩を心配する精神であり、何があっても藩を我が事と思う気持ちです。それを寝ても覚めても持ち続けるところに、鍋島侍たる覚悟の出発点(初門)と中心軸(骨髄)があるというわけです。(続く)

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上記の記事(連載記事)は、林英臣塾長が説かれてきた「綜學」を解説しています。

一言で言えば、綜學は綜合学問です。

「現代文明の行き詰まりを解決し、人類を危機から救うには、人類全体を見渡し、その英知を綜合することの出来る学問が必要である」という思いによって体系化されています。メルマガの読者の皆さんの人生や経営の悩みを救うヒントも、きっと見つかることでしょう。

出典元:『林英臣の元氣メルマガ1065号』
http://archives.mag2.com/0000149323/20180406093840000.html
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posted by 久野晋作 at 19:09| 千葉 ☁| 徒然こらむ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする